節句とは、「季節の節目となる日」のことだそうです。
奈良時代、中国から伝わったという「陰陽五行説」が由来とされています。
昔はたくさんの節句があったそうですが、日本に合わせて5つにまで減っていったとのこと。現代に伝わるのは「五節句」と呼ばれ、江戸時代に幕府が公的な祝日として制定したものです。
五節句(5つの節句)とは
1月7日 人日(じんじつ)の節句 <七草の節句>
3月3日 上巳(じょうし/じょうみ)の節句 <桃の節句・ひなまつり>
5月5日 端午(たんご)の節句 <菖蒲の節句>
7月7日 七夕(たなばた/しちせき)の節句 <星祭>
9月9日 重陽(ちょうよう)の節句 <菊の節句>
以上の5つが五節句となります。
なぜこの日が節句なのか
これのどこが季節の節目なのでしょう。そもそも節目の日として「節分」があります。
「節分=季節を分ける日」であり、立春・立夏・立秋・立冬の4つの前日にあたります。これは納得できます。
でも季節の節目といいつつ、11月には何も設定されていません。
そこで色々と調べてみたところ、結論として「季節」を分けたものではありませんでした。
節句は中国の春秋戦国時代頃の陰陽五行説に由来しているそうで、奇数を陽、偶数を陰という考えがあり、奇数が重なる日が縁起が良い、とされていたようなのです。
11月11日がなぜないのかといえば、どうやら二桁の数字は対象外だったようです。
1・3・5・7・9が陽である、ということですね。
この陽が重なる日に、神様に供物を捧げて無病息災などを祈り、捧げた供物を頂いて邪気を祓ったのだそうです。
五節句それぞれについて
1月7日(人日の節句)
ところで、1月1日は1年の始まりという特別な日のため、1月は7日を節句としているようです。
でも奇数なら7日の前に3日・5日と2回もあったのになぜ?と思ったら、理由がウェザーニュースに載っていました。
7日が選ばれた理由の一つとして、中国では1月1日から以下のように動物を当てはめて、占いを行う風習がありました。
1日:鶏、2日:犬(狗)、3日:羊、4日:猪、5日:牛、6日:馬、7日:人(羊と猪が逆の説もあります)
その日の占いの対象となる動物は大切に扱われます。7日を見ると「人」となっています。そのため、7日は人を大切にする日ということで「人日の節句」が制定されました。
人日の節句、という名前が定着しているとは思えませんが、この日は七草がゆを食べる日、ですね。節句はそれぞれに季節の植物をお供えや祓いに使っていますが、”胃を休める”という理由とともに、七草がゆを食べる日として定着したようですね。
3月3日(上巳の節句)
古代の中国では、3月の最初の巳の日に、川のほとりに男女があつまって災厄を祓う「上巳の祓い」という行事があったそうです。
また川の上流から盃を流し、自分の手元に届くまでに歌を作るという曲水の宴も催していたそうです。
これが3月3日に行われるようになり、それが日本に伝わったようですね。
そのため、「上巳の節句」と呼ばれるようです。
昔の日本でも、草木や藁で作ったひとがたの人形を撫でて穢れを移し川に流す、という風習がありました。
今はひとがたの紙を川に流して穢れを清める風習が残っている地域がありますね。
今のように、雛祭りとして女の子の節句として定着したのは、室町時代だそうです。
5月5日(端午の節句)
昔の中国で、端は「はじめ」という意味があり、月の初めの午の日を節句として祝っていたのが、のちに5月5日を端午の節句とした、
とする説や、午の月は旧暦の5月にあたり、5月の最初の午の日を節句としていたが、午と五が中国では同じ発音のため、5月の5日に固定された、
という説があるようです。
中国の古い文献(荊楚歳時記)にも菖蒲を刻んでお酒に混ぜて飲むという記述もあり、その風習が伝わったとされています。
奈良・平安時代頃に伝わったこの風習は日本ならではの進化を遂げ、今の鎧兜や鯉のぼり、柏餅を供えるといった風習になったようです。
端午の節句、詳しくは「端午の節句とは」に紹介しています。良かったら参照ください。
7月7日(七夕の節句)
「七夕」という漢字を「たなばた」と読むのはこれだけです。
そもそも節句は中国から伝わったはずなのに、非常に日本らしい読み方ですよね。なぜでしょう。
「たなばた」は「棚機(たなばた)」という、水の神様に秋の豊作を祈る、古い日本の行事です。
清い川の水辺にある機屋(はたや)で、乙女が神に捧げる着物を織って棚に供え、神様を迎えて豊作を祈るとともに人々の穢れを祓うものでした。
この時に使われたのが「棚機(たなばた)」という織り機で、そのまま行事の名前になっています。
この行事は日にちが決まっていたわけではないようですが、仏教が伝わると、お盆を迎える準備として7月7日の夕方に行われるようになったそうです。
七と夕の漢字を使って、たなばたと読ませているのも、これが由来だと言われています。
さて、中国では「乞巧奠(きこうでん)」という7月7日の行事があり、裁縫を司る織女星と、農業を司る牽牛星に祈りを捧げる風習がありました。
織姫と彦星の伝説ですね。
少し話が外れますが、この2つの星は7月7日に最も近づく、と言われていますが、実際には近づくことはないそうです。
中国では7月7日に天の川を挟んで最も光り輝いているように見えることから、七夕の伝説が生まれたそうなので、そもそも近づくとはされていないのですが、日本では、近付くことのない2人の星を会わせるため、水を張ったたらいに星を写し、手で波を立てて2人を合わせたそうですよ。
中国から伝わった乞巧奠、平安時代の宮中では果物や野菜などを供えて星を眺め、香を焚き、音楽や詩歌を楽しみ、サトイモの葉にたまっている夜露を“天の川のしずく”と捉え、それで墨をすって和歌を書き、願い事をしたそうです。
これが庶民に伝わったとき、5つの色の短冊に願い事を書いて星に願ったとされています。
なぜ5色なのか・・中国では織姫の織り糸にちなみ、吹き流しや五色の糸を吊るすそうですが、宮中では5色という点を引き継いでいないように見えます。
なのに、庶民が七夕で願いをかける短冊は5色なのは不思議だなと思います。
9月9日(重陽の節句)
中国では奇数が陽とされる、というのは上でも書きましたが、その極みでもある九という「陽」が「重」なることから「重陽」となったそうです。
「重九」とも書き、「重陽節」「重九節」などと呼ばれました。
昔は菊の花を愛でたり、菊の花びらを浮かばせたお酒を飲んだりという、菊の節句でもあったようですが、現在の中国では重陽節という風習ははなくなってしまったようですね。
日本でも5つの節句のうち、9月9日だけ特にこれといった行事がありません。
というのも、旧暦から新暦に移った際、月は1か月ほど前にずれてしまいます。当然他の節句も同じなのですが、すでに大きな行事として定着していた他の節句は継続しやすくとも、その季節に咲かない菊の花を愛でたりする菊の節句は継続が難しかったのでしょうか。